「運」の力は侮れない ~ 「マッチポイント」 

一か月程前にテレビでウッディ・アレン監督の映画「マッチポイント」を観た。世界って極端にいうとこんな風じゃない?という話。勧善懲悪でなければすっきりしない人には向かないが、そのすっきりしないところがポイントだ。

 

貧しい生まれのクリスは富豪の娘クロエと結婚し、すべてを手に入れる。結婚前にひとめ惚れして関係を持っていたノラが妊娠すると、離婚するか悩んだ末、クロエに話すと言い張るノラを殺害する。当然、クリスは刑事に疑われるも、意外な展開に。。。

 

テーマは「運」。幸運、不運は行いの良し悪しにかかわらず降りかかる。ノラの殺害を強盗の犯行に見せかけるため、クリスはノラの隣人の女性も射殺する。罪悪感に苦しむクリスの前にノラと隣人の幻が現れる。「私は関係ないのに」と訴える隣人にクリスは「罪のない人も軍事行動で虐殺される。巻き添えの犠牲者だ」と弁解する。 

犯人のクリスが言うので抵抗を感じる人がいそうだが、彼が言っているのではないとしたらどうだろう。戦争や殺人は偶然の出来事ではないが、それに巻き込まれるか否かは生まれた場所も含め運というしかない。事件、事故、災害、時には病気なども、どんなに避けようと気をつけても、わずかに確率を下げるくらいが関の山だろう。偶然が関わっている以上、すべての出来事が因果応報でかっちり動くほど世界は単純ではない。クリスの言うように「偶然には目的も計画もない」のだ。

 

女優になる夢を追いながらも「ツキがない」とぼやくノラ。”幸運にも”富豪の家に生まれたクロエは「運より努力が大事だ」と言う。元テニスのプロのクリスは自らの経験から「努力は必須だが、運の力はバカにできない」と信じている。

努力が報われないのはよくあること。逆に、実力以上に成功する場合もある。そして、クロエのように順風満帆な人生を歩んできた人の中には、運が味方してくれた部分もあるとは考えない人もいる。そんな人達は、いわゆる「負け組」に対して「自己責任」で片付けがちだ。でも実際のところ、自己責任の部分ってそんなに大きいのだろうか。この世界はコントロールできない事や理不尽な事だらけだ。だから運や偶然の力を考慮する謙虚さを持とうよ、とウッディ・アレンは言っているんじゃないかな。私の勝手な解釈ですけどね。