低レベルの鬱状態の話  「アバウト・ア・ボーイ」 

深夜、眠れなくてラジオをつけたら、ロバータ・フラックの「やさしく歌って (Killing Me Softly with His Song)」がかかっていた。この歌で連想するのはネスカフェのCM、だった。映画「アバウト・ア・ボーイ」を観るまでは。。。

今では目を閉じてこの歌を歌う変テコな親子と、それを聴かされる拷問に耐えるヒュー・グラントしかイメージできない(笑)。「アバウト・ア・ボーイ」は何度も観ている数少ない映画の一つだ。

 

父親が作曲したクリスマス・ソングの印税のおかげで、働かずとも何不自由なくロンドンで気楽な生活を謳歌しているウィル。ヒッピー風の母親の影響で学校で浮きまくり、いじめの対象になっている少年マーカスと、鬱になるとまた自殺を試みかねない母親。ウィルはマーカスと出会い、彼の周りの人々のごたごたに巻き込まれるうち、人との関わり方に対する考えを変えていく。

 

小説は1998年出版。映画は2002年公開。最近、原書と日本語訳を照らし合わせて読んでみた。

 

映画

まず、いろんな人が言っていることだが、ウィル役のヒュー・グラントは本当にはまり役!そして、変な子だけどだんだん愛おしくなってくるマーカス役のニコラス・ホルトもしっくりきている(「シングル・マン」で大人になった姿を見た時はびっくりしたなぁ)。

都会的で軽快な雰囲気が音楽と映像で楽しめるのは映画ならでは。笑わされながらも重い、原作のエッセンスが生きている。

原作とは細部が違う部分が所々あるが、映画を先に観ているせいか不自然な感じはしない。マーカスが学校のステージ発表で「やさしく歌って」を歌うのをウィルが阻止しようと駆けつける山場も原作にはないが、私はこのシーン、結構好きだ。後半が原作と大きく違ってくるのは、小説の設定が1993年から1994年で、ニルヴァーナカート・コバーンの死が関わってくるから。これは映画の設定年代とずれているので仕方がない。

映画で唯一、残念に思うのがエンディングだ。それぞれカップルになり大団円、というのがあまりにも単純でつまらない。この部分以外はすごくいいだけに玉に傷。なので、小説ではどうなのか一番気になるところだった。

 

Nick Hornby 著の原作小説

訳者のあとがきによると、ニック・ホーンビィは多くの人にとっての問題である「低レベルの鬱状態」について描きたかったそうだ。確かに世界中で起きている悲惨な出来事と比べたら取るに足らない悩みだ。

小説は当然、映画より詳細なので、よりユーモラスで、深刻で、シニカルでイギリスっぽい。原作を簡潔にうまく映像化している映画は稀だが、原作を読んで、改めてよくできた映画なのだと思った。

最後は映画でのように幸せなカップルが数組できるようなことはない。あー、よかった(笑)。すっきりはしないが、私はこっちの方がいいと思う。でもニック・ホーンビィは映画のエンディングの方がよかったかなと思うほど映画バージョンが気に入っているということだ。

 

原書と日本語訳

原書の英文は口語表現が多いこともあり、私の英語力では単語はわかっても意味が取れない部分がかなりあった。それでも原文のリズムの良さ、軽やかさは楽しめる。そういう雰囲気は日本語で表現しきれていない気がしたが、そこまで求めるのは酷というもの。あと、なぜか所々、英語の方が意味がわかりやすい箇所があった。

翻訳でひとつ気になったのは、Kurt Cobain の日本語表記。コバーンではなく、あえて英語の発音に近いコベインになっている。う~ん、これがなぁ。日本ではカート・コバーンで定着してる(よね?)ので、何度も出てくると違和感が。。。 

とはいえ、コベインと表記したかった訳者の気持ちはわかる。ミュージシャンとか俳優の名前のカタカナ表記は誰が最初に決めるんだろう?ちゃんと本来の発音の確認をしてるのか疑問に思うことがよくある。

 

インターネットがなかったら

最後に、全然関係ないけど。。。

小説と映画では設定が20年ずれている。映画では当然出てくるインターネットが、小説では存在しない。小説の中でウィルは「60年前、自分のような人々はどうやって生活していたのだろう」と思う。暇すぎて頭がおかしくなっただろう、と。それが今では、あの頃ネットなしで一体どうやって生活していたのかと思う。この20年って大きいなぁ。

 

アマゾンの小説(洋書)レビューには、簡単な英語で短く書き換えられた英語学習者用のレビューが混ざっている。