地獄で仏に出会った奇跡 ~ 後編(アネッテのこと)

ファックスを送り終えると、さっきの女性が待っていて改めてお礼を言われた。「観光で来ているの?」と尋ねられ「そうなんだけど、実は。。。」 すると彼女は大きく目を見開いて言った。「I want to help you!」

 

へっ!?  いや、気持ちは嬉しいけど、あなただって観光客でしょ?助けると言っても、どうやって?と思ったのが正直なところだった。が、彼女は数カ月滞在する予定でアパートの部屋を借りていたのだ。泊めてくれると言うのでお言葉に甘えることにした。降ってわいたような幸運。涙が出るほど嬉しかった。

 

そんなわけで、ユースホステルに2泊した後はこのデンマーク人、アネッテの部屋に転がり込んだ。天井が高く広々としたワンルームだった。パスポートが再発行されるまでの数日間、彼女の寝袋を借り、ソファーの上で寝るという居候生活。アネッテのおかげでちゃんとした屋根の下で眠ることができ宿泊費も浮いたが、万が一の事態に備えてお金はできるだけ残しておきたかった。プラハの中心部までは路面電車に乗らなければならないので、交通費節約のため外出はアパートの近くをブラブラ散歩したり公園に行ったりする程度に抑えていた。

 

アネッテが仕事をしていたのか学生だったのか、聞かなかったような気がする。物静かでちょっと浮世離れしていて、とんがったところのある人だった。休暇でプラハに来ているのに部屋で読書三昧。劇作家サミュエル・ベケットに心酔し、音楽はルー・リードを好んで聴いていた。食事は毎食ビーツが入ったボルシチのようなスープとパンとチーズのみ。スープは大きい鍋で大量に作ったのを温め直して食べていた。質素で量も少なく、大食いの私には考えられない食事内容だが、幸か不幸かこの時はまだ盗難のショックを引きずっていて食欲がなく、特に物足りなさは感じなかった。

 

アネッテとは近所のスーパーに行く以外ほとんど一緒に外出することはなかったが、一度だけ夜にバーみたいな所に連れて行ってくれたのを覚えている。ボヘミアンな人達がたむろするこのお店に何人か顔見知りがいるようだった。アネッテはこういう根無し草的な雰囲気が好きでプラハを選んだのかもしれない。

 

部屋では彼女の本の中から英語のを借りて読んだ。「あ、これ有名なやつだ。読んでみよう。」とミーハーな私が手に取ったベケットの「ゴドーを待ちながら」。こんな所で不条理劇を読んで時間を潰しているのが不思議な感じだった。この街の地下鉄で起こったことは人生最悪のアクシデントで、しばらくは思い出したくもなかったが、イギリスに戻ってから本屋で「ゴドーを待ちながら」が目に入ったときは、懐かしさに思わず買ってしまった。

 

 タバコをくゆらせ本を読むアネッテ

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ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

Waiting for Godot: A Tragicomedy in Two Acts

 

番外編に続く