今年こそ南陽に実をつけたい
庭のサクランボはナポレオン、佐藤錦、南陽が満開。高砂が2分咲といったところ。
南陽も去年以上に花をつけている。
今日で受粉作業は3回目。特に南陽はナポレオンと受粉させるように意識してやっている。去年の失敗を繰り返すまじ。
高砂がもっと咲いたらそれとも受粉させてみるつもり。南陽がまだ咲いていればいいんだけど。毎年父は自宅でのこの作業のついでに、親しくしている近所の人でサクランボがある2、3軒の家の受粉をしに行っている。そこで我が家とは違う品種があれば、毛ばたきについたその花粉でチャンスが増えるかも。ブラックチェリーを植えているお宅があるんだけど、これは南陽との相性どうなんだろう?ここまでやって、それでも南陽に実がつかなかったら、もう諦める。
南陽の花は微かながらいい香りがする。花が少ないときは気がつかなかった。ウチの他の品種はほとんど匂いがしないのにね(鼻が悪いだけか?)。子供のころ、チェリー味のアイスクリームが大好きだった。サクランボってこんな味じゃないのにな~と思いつつ、ピンクのアイスの中に赤い実がポツポツと入っているビジュアルに惹かれていたような気がする。でも南陽の花(実ではない)はまさにチェリーのアイスクリームの香りがするのだ。梅の飴とかの香りとも似ている。
庭の花も次々と咲き始め、今は芝桜が満開。これもいい香り。
日々、刻々と変わる草木の様子
ほぼ毎日行く近所のスーパーの向かいの桜がすごく綺麗で毎年楽しみ。3本あって、たぶんそれぞれ別のお宅の木。
特にこれ↓は低い所にも枝があって、歩道を歩くときに目の前にある感じなのだ。
通る人がよく足を止めて見上げていく。
川下公園にも行ってみた。
後で過去の写真をチェックしたら、同じアングルで撮ってた。発想がパターン化してるのね。。。
ここは苗木のような若い桜が植えられて保護されているエリア。見応えのある木になるのにどのくらいかかるんだろう。
こっちは山桜かな。
公園の周囲に植えられた白樺の若葉も芽吹いてきている。
この時期って、数日で草木の様子がすっかり変わるんだよね。
このところの陽気でグングン!
庭の行者にんにく。
父が増やしまくり4か所に。売って商売にでもするのか?ってくらいだ。その中で一番成長が早い場所。昨日と今日の陽気でぐんぐん伸びた。
外側の葉から初収穫。
ゴマ油で炒めて卵とじにした。
「やっぱり若いうちは柔らかいね」と父に言ってもポカ~ン。「行者にんにくだよ」と言うと「ホウレンソウかと思ってた」って、オイっ!ホントに鼻が悪いんだから。味がわからないなら株をあんなに増さなくても。。。
昨日も今日も日中は22~23℃まで上がった札幌。夏みたいだった。でも明日の最高気温は10℃らしい。アップダウンが激しいわ。
ファンという痛い生き物だった頃
先月、NHKの「ねほりんぱほりん」で”羽生結弦で人生変わった人”の話をやっていた。熱烈なファンが考えることは同じ。リッチー・ブラックモア熱という病気だった昔の自分を思い出した。
私は結弦ファンと違い、遠くでのコンサートに遠征する気はなかったし、一日中動画を貪れるような時代でもなかったから、大金や(具体的な)時間をリッチーに費やしたわけではない。でも頭の中からリッチーのことが離れることはなく、常に”心ここにあらず”という状態で、現実の生活から乖離したところで生きていた感じだ。
羽生結弦ファンの話で共感したのは、まず「彼と同時代を生きられた宇宙の采配と羽生選手の存在に感謝」というやつ(笑)。私もそう思ってたわ~。もっと言えば、私にとっての宇宙の始まりは1945年4月14日だった。「リッチーの祖先達の遺伝子がリッチー誕生に集結する準備段階として何十万年もの人類の歴史があったのだ」という痛さ。キリスト誕生以前を紀元前としてマイナスで数えるような感覚だった。ブラックモア暦というかね。書いていて恥ずかしいが、読んでいる人はほとんどいないだろうから、まあいい。
もうひとつ、結弦ファンの言葉に共感したのが「ひとつだけ願いが叶うなら」という問いに対する「過去に戻って赤ちゃんの時代から応援したい」というやつ。アスリートじゃないので”応援”というのは違うけど、現在地球に届く星の光がずっと昔の光なら、数十光年離れた星から望遠鏡で赤ちゃん時代のリッチーから観察したい、と思っていた。なぜかいちいち人類の歴史とか宇宙とか、話が大袈裟になっていた高校時代の私。当時はリッチーのお母さんがうらやましかったなあ。だって、生まれる前のリッチーも知っているんだから。しかし、こんなしょーもないことばっかり考えてるって、どんだけぼんやりした高校生だよ。
あり得ない装置の夢想といえば、”過去を見る望遠鏡”以外にもあった。雑誌のインタビューでリッチー行きつけのパブが使われ、そのお店の名前が記事の中に出ていたことがある。そのパブの場所が知りたくてたまらず(「行きたい」とは思わないのだ。リッチーとの物理的な距離を縮めたいという気持ちは皆無だったし、むしろそんな所へ行って遭遇でもしてしまったら私は崩壊すると思っていた。)どうしても地図上で場所を確認したかった。そんな場所が実在するのか確かめたかったというか。それで、ロングアイランドの住宅地図とまではいかなくても、ある程度大縮尺の地図はないものかと探したことがある。しかし、大縮尺どころか、ニューヨークの地図すら札幌では見つけられなかった。私は”どんな場所でも、道路に立った視点で周りを見渡せる装置”を夢想した。だから、ストリートビューができたときは本当に驚いた。「こ、これは私が何十年も前に熱望した装置ではないか!」と。過去を見る望遠鏡と同じくらい実現不可能だと思っていたのに。30年で世の中はそれ程までに変わるものなのだね。
20代の半ばには、そんな中毒状態とも言える熱狂から覚めたけど、誰かにはまっているときの気持ちは経験者としてよくわかる。羽生結弦ファンの話もいちいち頷けた。でもこういう話って、理解できない人にはドン引きされる危険があるので、相手を選ばずにうっかり話したりできないよね~。
今日はリッチーの74回目の誕生日(ブラックモア暦75年の新年)を祝って、昔のおバカな妄想話をしてみました。
気がつくとバッハを選んでいる
今までより少し手応えのある曲が弾きたくて、全音の「J.S.バッハ=ケンプ ピアノのための10の編曲」を買った。
バッハ=ケンプ ピアノのための10の編曲 (Zenーon piano library)
- 作者: ヴィルヘルム・ケンプフ,ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
- 出版社/メーカー: 全音楽譜出版社
- 発売日: 2003/11/20
- メディア: 楽譜
- 購入: 1人 クリック: 4回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
目当ては「イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ」(タイトルの日本語訳はいろいろ)。他にも「ラルゴ」「シチリアーノ」「主よ、人の望みの喜びよ」といったキャッチーな(?)小曲が入っていて、お得感あり(笑)。
「イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ」はタルコフスキーの映画「惑星ソラリス」で使われていることでよく知られているらしい。映画は観ていないが、レムの原作は読んだことがある。絶妙に不安定な旋律(と私には思える)が、不安をかきたてるあの小説に合う。
気がつくと、いまクラシックの曲で弾くのはほとんどがバッハになっている。昔ピアノを習っていた頃、バッハは退屈なだけだった。嫌々なのが態度にも表れていたようで、先生に「バッハはみんな嫌いなのよ!(だから我慢して練習しなさい)」と言われたのを覚えている。先生~、そりゃないでしょ~(笑)。
ただ当時から、ピアノで習う曲(「インベンションとシンフォニア」とか「フランス組曲」)以外では好きな曲があったし、クラシックを聴くとしたらバッハだったんだよなあ。鍵盤楽器用ではない曲をピアノ用に編曲した楽譜も簡単に入手できるようになったのが、今バッハを弾く気になった要因だと思う。
ピアノを再開しなかったら、一生「バッハをピアノで弾くのは嫌い」と思い込んでいただろう。好きなものの範囲がほんの少しだけど広がったのが、なんか嬉しい。
今年はふきのとうも早い、と思ったら。。。
今年は雪が少なかったから雪解けも早い。今日、車庫の裏(いつもの場所)にふきのとうが芽を出しているのを見つけた。
「やっぱり今年はふきのとうも早い」と思ったけど、一応自分の過去の記事を調べてみたら3年前は3月27日に見つけてた。 早いと思ったのは気のせいだったようで。
一昨年は4月6日。去年は3月30日(今日と同じ!)。しかも、去年の写真を見たら今年より雪が少ないし。。。雪解けが早いと思ったのも勘違いか?ここ数日雪だったせいかな。↓は去年の3月30日。
洗って
天ぷらに。ふきのとうは天ぷら以外で食べたことがないような気がする。
いつも同じような写真ばっかりだな。