余った黒豆をパウンドケーキに入れてみた

お正月用に作った黒豆煮が余っているので、そろそろ使い切ろうかと思い、パウンドケーキの中に入れてみることにした。なんか、いつも余った物をパウンドケーキに入れてるような気がするな(笑)。

 

薄力粉・・・150g

砂糖・・・・95g

バター・・・100g

卵・・・・・2個(124g)

BP・・・・・少々

ブランディー・・・好きなだけ

砂糖(なくても可。ブランディーに溶かす分)・・・・5g

 

今までとは材料の分量を変えてみた。厳密にはこの分量だと全部(粉、バター、砂糖、卵)同量で作るパウンドケーキとは言えませんが。ブランディーはなくてもいいし、他の洋酒でも。私はお菓子にお酒を使うのが大好きなので多めに使う。

黒豆は水を切った状態で95gあった。

 

1. 室温に戻したバターと砂糖を空気を入れる感じでよ~く混ぜる。

2. 溶いた卵を数回に分けて1に混ぜる。一度に入れる量が多いとうまく混ざらないので少しずつ。

3. 2が滑らかになったら、BPを入れてふるった薄力粉を混ぜる。練らないように。中にドライフルーツなどを入れる場合はここで混ぜ込むのが普通。今回は焼く過程で黒豆が沈みそうだったので混ぜ込まず、並べることにした。

4. クッキングシートを敷いた型に入れる。ここで黒豆を3段にして入れようとしたら、途中で生地が足りなくなり、結局一番上の部分は生地に無理矢理混ぜ込んだ。

 

5.生地の真ん中をくぼませて、180℃に余熱したオーブンで20分。さらに160℃で30分。途中、上が焼けすぎるようならアルミホイルをかぶせる。焼き時間は様子を見ながら加減してください。

 

6. クッキングシートをはがし、砂糖を溶かしたブランディーを刷毛で全体に塗る。

7. 粗熱が取れたらラップでぴったり包み、1日寝かせる。

 

 

黒豆は思ったほど沈んでいなかった。これなら最初から生地に混ぜ込んだ方が楽だったな。バターと砂糖をハンドミキサーでしつこく混ぜたのがよかったのか、今回のパウンドケーキはすごくおいしくできた。黒豆の食感がアクセントになっているし、バターの風味も活きている。自分で作った物としては上出来なので、分量の記録をここにも残しておくことにした。卵が大きい分、薄力粉が多めになってます。

PayPal でしか買えない楽譜

ピアノ版「天国への階段」は彼女のアレンジが最高!

ロックをピアノでカヴァーする Vikaさんはクラシックのピアニスト。彼女がアレンジした楽譜は基本的にPayPalでの支払いで買える。PayPalのアカウントを持っていないのでメールで問い合わせたら、銀行振り込みも可とのこと。でも振り込み手数料がバカ高くて諦めた。妥協して別の人のアレンジの楽譜を2種類入手してみたけど、特に(この演奏での)2:00頃からの部分とギターソロ部分がかなり違っていて、やっぱり彼女のがいいんだよなあ。

 

この「キラー・クイーン」のアレンジも好き。PayPal支払い。。。

「キラー・クイーン」のピアノ用アレンジで私が着目するポイントは ♪ She's a killer Queeeen ♪ の部分でグゥィ~ンと上がっていくところをどう誤魔化して(?)いるか。このアレンジはその部分も上手くできてるし、他のと比べて雰囲気が原曲に近いと思う。楽譜の1ページ目の見本を見ることができるので、写譜して弾いてみた。最後まで欲し~い。やっぱりPayPal のアカウント作るべきかなあ。

 

Vikaさんの「ボヘミアン・ラプソディー」。最近、ベーゼンドルファーで撮り直したようです。

いつの日か、これが弾けるくらいになりたいものだ。

余裕がなさすぎて様にならない ~ ガーシュウィンの「サマータイム」

マタイ受難曲の「主よあわれみ給え」の次に選んだのはモーツアルトのレクイエムから「ラクリモーサ」。「ぷりんと楽譜」で購入した。セットになってる「怒りの日」は好きじゃないので手を付けず。このピアノ版「ラクリモーサ」は今もほぼ毎日弾くくらいお気に入り。かなり簡単で、中~上級となっている難易度は参考にならない。

楽譜: 「ラクリモーサ」~「怒りの日」 レクイエム ニ短調 K.626 / Wolfgang Amadeus Mozart : ピアノ(ソロ) / 中~上級 - ぷりんと楽譜

  

次に練習したのは、ガーシュウィンの「サマータイム」。ピアノを始めるきっかけになったのがジャズピアノだったこともあり、ジャズっぽい曲が弾きたいと思っていた。 

サマータイム」は歌の印象が強く、何度も耳にしていながら一度もいいと思ったことがなかったのに、ピアノで聴くと急にいい曲に思えてきた。というか、稲垣えみ子さんも言っていたように、自分で弾くという意識で聴くと全く違って聴こえるんだよなあ。 

 

楽譜を見るとかなりスカスカ。でも弾いてみると意外と難しかったのだ。もちろん”私にとっては”だけど。少なくとも、ぱっと見ほど簡単ではないと思う。 

www.youtube.com

楽譜は↑から無料でダウンロードできた。

 

左右別々に弾くと簡単なのに、両手を合わせようとするとうまくできない。なんとか一応譜面は追えるようになったものの、手を動かすだけで精一杯でバタバタした感じになってしまう。特に私は左手の動きの幅(高低)が大きいのが苦手なのと、左右の手の距離が離れているとなぜか弾き難くい。余裕のないガチャガチャした演奏で、あまりの下手さに嫌になってくる。バッハなんかだと、曲によってはたどたどしくてもそれなりに聴けたりする(そんなことないか?笑)けど、ジャズってそれこそ目を瞑って鼻歌まじりで弾くくらいの余裕がないと厳しいのかな。

 

この後は北海道胆振東部地震に加えて両親が病気で倒れたことで、ピアノはしばらくお休みとなった。

「継続は力なり」を実感 ~ 「主よあわれみ給え(マタイ受難曲より)」

ピアノを再開して以来、YouTube でピアノのソロ曲を聴いては簡単過ぎず難し過ぎない無料楽譜を探し、コンビニでプリント。厚紙に貼って不織布のテープで補強し作成した蛇腹状の楽譜を使って数曲を並行して毎日練習していた。一日一時間くらい。

 

一か月ほど経ったある日、こんな動画を見た。


Erbarme dich from St Matthew Passion, Transcription by Frederic Chiu

 

ピアノ用にアレンジされたものがあるのか!これ、絶対弾きたい!そんなに難しそうじゃないし。

 

バッハのマタイ受難曲の中でも有名なアリアだ(39番)。普段は洋楽のロック、ポップスしか聴かないが、長距離ドライブに限ってはクラシックも聴く。マタイ受難曲からは好きな曲を集めたのを。車の少ない田舎道に合うのだ(歌詞がわからなくてよかった)。

 

楽譜も買えるようになってるけど、15ドル。すっかり無料楽譜に慣れた身には高い。調べてみると、以前は全音のピアノピースで高橋悠治編曲のがあったらしい。現在は絶版で、中古の楽譜がアマゾンで2万円。2万って、あーた。。。

 

やっぱりFrederic Chiu氏の楽譜を買うしかないか。。。と迷いながら、高橋氏のホームページを見ると、この曲の楽譜を無料でダウンロードできるようになっているではありませんか!ありがたい~。

http://www.suigyu.com/yuji/keyboard.html

 

それから数週間は他の曲には目もくれず、惚れたこの曲一筋。Chiu版の方がシンプル。込み入った楽譜を読むのはまるでパズルを解くようで、面白くはあるけどかなり苦労した。楽譜どおりの指だと届かなかったり、私には弾きにくかったりする音は左右反対の指で弾くように印を付けたり、どっちの手でも届かない音には✖を付けたり。

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初めのうちは、複雑な箇所になると一小節読み取って指を動かせるようになるのに5分もかかったりして、このペースでは最後までたどり着くのに数カ月かかりそうだと思っていた。

 
それが、進むにつれパターンに慣れてきて比較的楽になり、2週間くらいでどうにか最後まで通して弾けるようになった。と言っても、この5ページの曲を弾くのに30分。ここまでテンポが遅いと、弾いてる本人以外には何の曲なのかわからないであろうレベル(笑)。

 

1時間練習しても2回しか弾けないので、難しい部分だけ抜き出して練習するようになる。そうすると突然、集中力がプツッと切れて何が何だか訳がわからなくなる瞬間がある。脳の処理能力の限界を超えるというか。大体1時間くらいでそんな状態になり練習終了。

 

でも歳を取っても進歩はするんだなあ。1曲弾くのに30分かかってたのが、それから2週間後には10分ちょっとで弾けるようになった。弾くのにかかる時間で言うのもどうかと思うけど、まあ一応の目安として。

 

後で高橋氏自身の演奏音源を見つけた。6分25秒。私の倍くらいの速度。私自身は、よく聴いていたマタイ受難曲がかなりスローテンポだったせいもあり、もう少しゆっくりの方がしっくりくる。 

www.youtube.com

 

今思えば、私には相当ハードルが高い曲だった。楽譜を見ても難しいのかそうでもないのかの判断もできなくなっていたのだ。全音のこの楽譜の難易度(かなり適当だという噂)はEだったらしい。実際は今の私が(たどたどしくはあれ)なんとか弾けるようになったくらいだから、そこまで難しくはないはず。せいぜいDくらいかな。

 

どうにかこうにかスローテンポで弾ける(と言っていいのか?)ようになったが、9月の地震後しばらくピアノから離れていて一カ月振りくらいで弾いてみたら、かなり前の状態に戻っていた。何度か練習すると少し前進するものの、また一週間も弾かないでいると難しい部分でてこずる。その繰り返し。そんなものだろう。一方で最近久し振りに弾いたところ、前は指がスムーズに動かなかった箇所がそうでもなくなっていたり、別の曲で練習を続けていた成果が見えることもある。

 

まだピアノを再開して半年なのに「継続は力なり」と言うのは大袈裟かもしれないし、どんなことでも初めのうちは進歩が大きいものだけど、高い山とは知らずに四つん這いで登頂し自信をつけたって感じ。これに気を良くして、また次の曲を物色するのだった。 

今年辞めたこと3つ

今年、意識的に辞めたこと(物)が3つある。「白髪染め」「(髪の)トリートメント」「洗濯機のゴミ取りネット」だ。

 

白髪染めは5年続けた。毛抜きで抜ききれなくなったら染めずにそのままでいるつもりだったのに、何かの拍子に「一部分だけだから」と染めてしまったら辞めるタイミングがわからなくなった。

 

「もう絶対に染めない」と決心したのは、バラエティー番組で見た70才くらいの男性俳優が少し薄くなった髪をセットしてボリュームを持たせ、明るい茶色に染めているのを見たのがきっかけだ。ヘアスタイルに気を使っているのに、無理して若作りしている必死感しか伝わってこない。

 

人の振り見て我が振り直せ、である。実際に染めるのを辞めてみると、私はショートヘアなので移行期間も短く、生え際が見える辺りはあまり白髪が多くないこともあって、特に違和感もなく完了(?)した。案ずるより産むが易しだ。確かに染めていたときよりは少し老けて見えるかもしれない。でも別に実年齢より若く見られなくたっていいわ。

 

 

”グレイヘア”が今年の流行語の候補になっていたことは、ついこの間まで知らなかったが、多くの人が無理しない方向に流れていく”時代の空気”というものがあるのだろう。若い人達の力みのないライフスタイルも、ガツガツしていなくて私は好きだ。

 

たまたま髪関係が続くが、トリートメントを辞めたのは白髪染めとは全く関係がない。買い替えたトリートメントの香りがきつく、量を減らしてすすぎをしつこくしても、匂いで頭が痛くなるほどだったのだ。椿油を使ってみても、匂いに癖があってダメ。結局、シャンプー自体の量を減らし、洗い方を変え、トリートメントの類は使わないやり方で落ち着いた。

 

まず、シャンプーは直接使わず、以前より少ない量を洗面器に溜めたお湯に溶かす。そのお湯の中で地肌を洗う。すすいだ後は何もつけない。髪を途中まで乾かした段階でスクワランオイルを1滴手の平に取り、髪の前半分(私は後ろ半分はすごく短いので)にぐしゃぐしゃと延ばす。これだけ。ただこれは髪が短いからできること。それと、どうしてもしっとり感が足りない(かと言ってオイルを増やすとベタつく)ので、豚毛のブラシは必須。仕上げにこれを使わないと髪がまとまらない。

 

たま~にスタイリング剤を使ったときは以前と同じようにしっかりシャンプーし、トリートメントもする。でも髪に何もつけていない日は”お湯の中洗い”で十分。元々トリートメントが地肌に付くのがちょっと嫌だったので、今のやり方に満足している。

 

3つ目の「洗濯機のゴミ取りネット」は、ずっと前から存在の意味がわからなかった物だ。洗濯機内のすべての水があのネットを通るとか、水が流れ出るすべての穴にネットが付いているというのならわかる。でもあの小さい2つのネットを通るのは水のほんの一部のはず。そんな一部の水のゴミを取ったところで洗濯物に付くゴミの量にそれほどの違いがあるとは思えない。「こんなにゴミが取れた~!」と目に見える満足感(?)のための部品なんじゃないのかと思っている。

 

さらに、私はあのネットに付いたゴミを取る作業が大嫌いなのだ。素手でやらないと綺麗に取れないので、お風呂の排水溝の掃除よりも嫌。必要だと感じている物ならまだしも!と納得いかなかった。

 

家の家事が完全に母から私に移行したこともあり、半年以上前に外してみた。思ったとおり、何の不具合もない。(ゴミ取りネットがなければ)排水管が詰まる恐れがあるという意見もあるようだが、排水はかなりの勢いで流れ出るし、ゴミだって大した大きさではないから大丈夫だと思うんだけどなあ。なにより、さっきも書いたように元々あのゴミ取りネットがすべてのゴミをキャッチしていたわけではないのだよ。まあ、後に排水管が詰まったら、私が間違っていたことを認めます。

 

これまで何気なく使っていた物が、実はなければないで困らなかったとか、ない方が楽だったって話です。そういう物、意識すればもっとありそうだな~。

大人になってからのピアノ再開”あるある”なのかな

NHKラジオ深夜便はネット上で過去1週間分の放送を聴くことができる。たまに眠れないときなど、面白そうなのがないか覗いている。

 

12月13日放送の中に元新聞記者、稲垣えみ子さんの話があった。彼女のことは知っている人も多いだろう。家でガス契約もせず、冷暖房も使わないという究極のミニマリスト的な生活をしている人だ。そこまでではなくても、私も不要なものを持たない生活には興味があり、彼女の本を読んだこともある。深夜便も彼女の回は何度か聴いている。そして今回の話題はなんと「40年振りにピアノを始めてドはまりしている」という話。え~っ!ここにお仲間が!というのと、冷蔵庫さえ持たない稲垣さんが(電子だとしても)ピアノを買ったのか!?という驚きで興味津々。

 

共感できるところがたくさんあって面白かった。でも彼女のハマり方はハンパない。何でも突き詰める人なのね~。話を簡単にまとまると

・ピアノは小学校卒業まで。練習や親からのプレッシャーが嫌で嫌で、辞めたときはせいせいしたが、大人になってからは少々後悔することもあった。

・再開したきっかけは、再現された鴨長明の庵を見たこと。すべてを捨てての四畳半生活で、唯一と言ってもいい所有物が琵琶と琴だったことに衝撃を受けた。

 ・たまたま近所のカフェにピアノがあり、そこに通ううちに営業時間外にピアノを練習させてもらう許可を得る。以来、朝練と夜練合わせると一日3時間くらい練習している。ピアノに時間を取られすぎて仕事の時間が侵食されているほど。

・クラシック好きでもなんでもなかったのに、突然ピアノ曲を聴きまくるようになった。「練習すればいつか弾けるようになるかも」という思いで聴くと、どの曲もすばらしく聴こえる。

・人に聴いてほしいという気持ちは全くない。ただただ一人で弾くことが楽しく、飽きない。やればやるほど世界が広がる。これさえあれば生涯楽しく生きていけるという心境。

・まったく役に立たないことをやる、ただ音と戯れるという贅沢。目標がない。だから楽しい。

 

大人になってからピアノを再開するとハマってしまう人が多いというのは聞いたことがある。昔の私は、そもそも上手く弾けるようになりたいという気持ちすらなかった。弾けるようになったところで「それが何か?」ってなもの。今は右手と左手の音の調和やちょっとしたフレーズにも「何て綺麗!」と思うんだよなあ。昔は(曲単位で好きな物はあっても)そんな風に感じたことは一度もなかった。やらされてるのと自ら望んでやるのとではこれほどまでに差が出るものか。

 

「年を取るとピアノをやっても目標の持ちようがないのがいい」と稲垣さん。確かに実利的な目標はないけど、モチベーションは今の方がはるかに強い。弾きたい曲を自分で選んでいるのも大きな違いだ。昔は先生に指示されるだけだったからね。基礎を習得するには必要だったのかもしれないけど、本当につまんなかったよ。

 

いろんなピアノ曲の中から「これなら弾けそうかな?」って曲の楽譜をネットで調べ、♯や♭の多さに「あ、ダメだ。。。」となるのも”あるある”なのかも。私も昔使っていた楽譜(本)の中から初挑戦の曲を何か弾いてみようと思っても、♯、♭が四つ以上あるとやる気なくなるし。

 

「老眼だから楽譜を拡大コピーする」っていうのにも「そうそう!」と。楽譜をダウンロードしてコンビニでプリントするとき、初めのうちは無意識にA4だったのが、途中からB4に。断然見やすい。ただ、コンビニ印刷のインクってライトが当たると光って見えにくいのが難点なんだよなあ。

 

稲垣さんは「(よく言われるように)ピアノを弾くことで脳が活性化され、弾いている最中に原稿のアイディアが浮かぶことがある」そうだ。でも「ピアノに時間を取られて書く時間がなく、脳が活性化しても何の意味もない」というのが可笑しかった。脳の活性化に関して私は実感がないが、劣化を食い止められれば上々だ。でも今では指も(スピードは別として)ほぼ思い通りに動くようになったし初見もずっと早くできるようになり、6カ月前とは雲泥の差。この40年間使っていなかった脳の神経回路が復活し始めているのは確かだろう。

 

私は3時間も弾いたりはしないけど、細切れに弾いた時間を合計すると2時間くらいになる日がある。夜中にベッドから起き出して弱音ペダルを使って弾きだしたり(私の部屋の下は父の寝室なので)。ただ稲垣さんと違って、今後もずっとこのテンションが続くとは思っていない。というのも、弾きたいと思う曲が限られているからだ。この半年でダウンロードするなどして初めて手に入れた楽譜は10曲もない。全部、元々耳で知っている、つまり好きな曲だ。この他に今後どうしても弾けるようになりたいと思う曲は数曲しかない。それらがひと通り弾けるようになり、次に挑戦したいと思える曲が見つけられなかったら、ピアノ熱はかなり冷めるだろうという気はする。同じ曲ばかり弾いていると飽きてしまうのだ。こういうところは子供の頃と変わらない。

 

昔はあれほど嫌だったピアノに熱中するようになったのは、当然ピアノに向き合う心の持ち方の違いのせいなのだけど、私の場合、ひとつだけ物理的な理由がある。それはピアノの音の響きの違いだ。今の方が断然響きが良いおかげで、音自体を楽しむことができるようになった。習っていた頃は、和室の一部を板張りにした部屋にピアノを置いていた。家を建てたのとピアノを買ったのがほぼ同時期なので、たぶんピアノを置く予定でそういう作りにしたのだと思う。当時は音の響きが悪いというか、籠っていて好きになれなかった。ピアノの下の床は一応フローリング(?)だけど、他は畳だし、砂壁も音を吸収していたのだろう。「なんでウチのピアノはこんなもっさりした音なんだよ。。。」と不満に思っていた。良く言えば柔らかい音なんだけど、私はもっと乾いた硬い音が好きなのだ。

 

今の家はピアノを置いている部屋の床と壁の素材が前とは違うせいで、カラッとした音がする。とても同じピアノとは思えないほど。古くなったことでハンマーのフェルトが堅くなっているのも少しは関係あるかもしれない。そして今回ピアノを再開してから、二か所ある窓の厚手のカーテンを開けてるか閉めてるかでも音が違うことに気がついた。開けている方がよく響くし、更にピアノの天板を開けて弾くのも華やかになってお気に入り。アップライトピアノで天板を開けるなんて、以前は考えたこともなかった。響きが良くなるとなぜか鍵盤のタッチも軽く感じて快適。冬になってからは一層乾いた好みの音になってきた。やっぱり楽器を楽しむのに音の良し悪しは重要なんだな~。

 

ピアノの話、しばらく続くかも。

アガサ・クリスティーの「終わりなき夜に生まれつく」の最後と「ボヘミアン・ラプソディー」の歌詞が似ている件

映画「ボヘミアン・ラプソディー」のチケットをネット予約し、見に行く予定の日の未明、ベッドの中でアガサ・クリスティーの「終わりなき夜に生まれつく」の原書(原題は"Endless Night")を読み終えた。最後の最後で「ボヘミアン・ラプソディー」(映画ではなく曲の方)とシンクロしていて驚いた。ちょっとネタバレあり。

 

"Endless Night" は若い男性のモノローグ。逆玉に乗り世界有数の富豪となったマイケルは、理想の家に愛する人と住むという夢を実現する。しかしその家を建てた土地にはジプシーの呪いがかけられていた。。。物語の最後、殺人を犯した直後のマイケルの言葉は

"It seems odd, doesn't it, that Greta doesn't matter at all?  And even my beautiful house doesn't matter." (奇妙じゃないか?グレタなんて、もうどうでもいいとはね。 そして僕の美しい家さえどうでもいいんだ。)これ、最後から数行の所です。

そして有名なフレーズであるらしい "In my end is my beginning" というのが引用される。直訳すれば「終わりの中に始まりがある」で、調べてみると人生の循環を意味するとかなんとか。よくわからないけど。

 

殺人を犯した人が " does't matter "と語る(正確には小説の中でも紙に書いている)。ボヘミアン・ラプソディーの歌詞と同じじゃないか!と、その日映画を見に行く予定だったこともあって偶然の一致にびっくりしたというわけ。歌詞では "Nothing really matters" だけど、同じようなもの。しかも、方やボヘミアン、方やジプシー(ボヘミアンにはジプシーの意味もある)。そしてボヘミアン・ラプソディーの方は最後が "Anyway the wind blows" 。「それでも風は吹く」というのは「ちっぽけな個人の人生に何が起きようと、世界は周り続ける」という意味に受け取れる。フレディーが作ったフレーズではなさそう。人生を俯瞰したイメージのフレーズで締めるというのも、なんか似てない?

 

悪い意味で人生が激変したり、何か悲劇的な出来事に見舞われたとき、自分の世界が崩壊しようと他の人達にとっての世界は変わらないのだと感じるのは珍しくもないし、犯罪を犯して人生終わったと思っている人なら「すべてどうでもいい」という心境になるのは理解できる。でも、それにしてもエンディングが似すぎてると思うんだよなあ。ただ、この日に「ボヘミアン・ラプソディー」を見に行く予定でなければ気が付かなかったかも。

 

"Endess Night" の内容に関しては、心理描写は楽しめたものの、ミステリーとしてはイマイチかなと思った。読者を騙す、いわゆる”信頼できない語り手”というやつは好きになれない。「あれもこれも嘘でした」では読んだ意味がなくて虚しい。映画やドラマなら効果的だと思って調べたら、1972年に映画化されていた。グレタ役はブリット・エクランド。女優としては全然知らないけど、昔ミュージック・ライフかなんかのグラビアでロッド・スチュアートと一緒に写ってるのを見た記憶がある。

 

英文の難易度としては、ストーリーに複雑なトリックがあるわけでもないので読みやすい方だと思う。私はたまに知らない単語があったけど、意味が推測できたり、推測できなくても話の理解に支障があるとは思えなかったから辞書は使わなかった。田舎の人やジプシーの話し言葉は文法も標準とは違っている。でも意味はわかる。あとは、やたらと仮定法が多いという印象。"I could never have hated Ellie.(添い遂げたとしても)エリーを憎むことはできなかっただろう。" みたいに、主節だけの仮定法がすごく多い。日本語にするとくどくなるこういう表現、英語だとあっさり言えて便利だと、今さらながら。

 

Endless Night

Endless Night

 

 

終りなき夜に生れつく(クリスティー文庫)

終りなき夜に生れつく(クリスティー文庫)