今年辞めたこと3つ

今年、意識的に辞めたこと(物)が3つある。「白髪染め」「(髪の)トリートメント」「洗濯機のゴミ取りネット」だ。

 

白髪染めは5年続けた。毛抜きで抜ききれなくなったら染めずにそのままでいるつもりだったのに、何かの拍子に「一部分だけだから」と染めてしまったら辞めるタイミングがわからなくなった。

 

「もう絶対に染めない」と決心したのは、バラエティー番組で見た70才くらいの男性俳優が少し薄くなった髪をセットしてボリュームを持たせ、明るい茶色に染めているのを見たのがきっかけだ。ヘアスタイルに気を使っているのに、無理して若作りしている必死感しか伝わってこない。

 

人の振り見て我が振り直せ、である。実際に染めるのを辞めてみると、私はショートヘアなので移行期間も短く、生え際が見える辺りはあまり白髪が多くないこともあって、特に違和感もなく完了(?)した。案ずるより産むが易しだ。確かに染めていたときよりは少し老けて見えるかもしれない。でも別に実年齢より若く見られなくたっていいわ。

 

 

”グレイヘア”が今年の流行語の候補になっていたことは、ついこの間まで知らなかったが、多くの人が無理しない方向に流れていく”時代の空気”というものがあるのだろう。若い人達の力みのないライフスタイルも、ガツガツしていなくて私は好きだ。

 

たまたま髪関係が続くが、トリートメントを辞めたのは白髪染めとは全く関係がない。買い替えたトリートメントの香りがきつく、量を減らしてすすぎをしつこくしても、匂いで頭が痛くなるほどだったのだ。椿油を使ってみても、匂いに癖があってダメ。結局、シャンプー自体の量を減らし、洗い方を変え、トリートメントの類は使わないやり方で落ち着いた。

 

まず、シャンプーは直接使わず、以前より少ない量を洗面器に溜めたお湯に溶かす。そのお湯の中で地肌を洗う。すすいだ後は何もつけない。髪を途中まで乾かした段階でスクワランオイルを1滴手の平に取り、髪の前半分(私は後ろ半分はすごく短いので)にぐしゃぐしゃと延ばす。これだけ。ただこれは髪が短いからできること。それと、どうしてもしっとり感が足りない(かと言ってオイルを増やすとベタつく)ので、豚毛のブラシは必須。仕上げにこれを使わないと髪がまとまらない。

 

たま~にスタイリング剤を使ったときは以前と同じようにしっかりシャンプーし、トリートメントもする。でも髪に何もつけていない日は”お湯の中洗い”で十分。元々トリートメントが地肌に付くのがちょっと嫌だったので、今のやり方に満足している。

 

3つ目の「洗濯機のゴミ取りネット」は、ずっと前から存在の意味がわからなかった物だ。洗濯機内のすべての水があのネットを通るとか、水が流れ出るすべての穴にネットが付いているというのならわかる。でもあの小さい2つのネットを通るのは水のほんの一部のはず。そんな一部の水のゴミを取ったところで洗濯物に付くゴミの量にそれほどの違いがあるとは思えない。「こんなにゴミが取れた~!」と目に見える満足感(?)のための部品なんじゃないのかと思っている。

 

さらに、私はあのネットに付いたゴミを取る作業が大嫌いなのだ。素手でやらないと綺麗に取れないので、お風呂の排水溝の掃除よりも嫌。必要だと感じている物ならまだしも!と納得いかなかった。

 

家の家事が完全に母から私に移行したこともあり、半年以上前に外してみた。思ったとおり、何の不具合もない。(ゴミ取りネットがなければ)排水管が詰まる恐れがあるという意見もあるようだが、排水はかなりの勢いで流れ出るし、ゴミだって大した大きさではないから大丈夫だと思うんだけどなあ。なにより、さっきも書いたように元々あのゴミ取りネットがすべてのゴミをキャッチしていたわけではないのだよ。まあ、後に排水管が詰まったら、私が間違っていたことを認めます。

 

これまで何気なく使っていた物が、実はなければないで困らなかったとか、ない方が楽だったって話です。そういう物、意識すればもっとありそうだな~。

大人になってからのピアノ再開”あるある”なのかな

NHKラジオ深夜便はネット上で過去1週間分の放送を聴くことができる。たまに眠れないときなど、面白そうなのがないか覗いている。

 

12月13日放送の中に元新聞記者、稲垣えみ子さんの話があった。彼女のことは知っている人も多いだろう。家でガス契約もせず、冷暖房も使わないという究極のミニマリスト的な生活をしている人だ。そこまでではなくても、私も不要なものを持たない生活には興味があり、彼女の本を読んだこともある。深夜便も彼女の回は何度か聴いている。そして今回の話題はなんと「40年振りにピアノを始めてドはまりしている」という話。え~っ!ここにお仲間が!というのと、冷蔵庫さえ持たない稲垣さんが(電子だとしても)ピアノを買ったのか!?という驚きで興味津々。

 

共感できるところがたくさんあって面白かった。でも彼女のハマり方はハンパない。何でも突き詰める人なのね~。話を簡単にまとまると

・ピアノは小学校卒業まで。練習や親からのプレッシャーが嫌で嫌で、辞めたときはせいせいしたが、大人になってからは少々後悔することもあった。

・再開したきっかけは、再現された鴨長明の庵を見たこと。すべてを捨てての四畳半生活で、唯一と言ってもいい所有物が琵琶と琴だったことに衝撃を受けた。

 ・たまたま近所のカフェにピアノがあり、そこに通ううちに営業時間外にピアノを練習させてもらう許可を得る。以来、朝練と夜練合わせると一日3時間くらい練習している。ピアノに時間を取られすぎて仕事の時間が侵食されているほど。

・クラシック好きでもなんでもなかったのに、突然ピアノ曲を聴きまくるようになった。「練習すればいつか弾けるようになるかも」という思いで聴くと、どの曲もすばらしく聴こえる。

・人に聴いてほしいという気持ちは全くない。ただただ一人で弾くことが楽しく、飽きない。やればやるほど世界が広がる。これさえあれば生涯楽しく生きていけるという心境。

・まったく役に立たないことをやる、ただ音と戯れるという贅沢。目標がない。だから楽しい。

 

大人になってからピアノを再開するとハマってしまう人が多いというのは聞いたことがある。昔の私は、そもそも上手く弾けるようになりたいという気持ちすらなかった。弾けるようになったところで「それが何か?」ってなもの。今は右手と左手の音の調和やちょっとしたフレーズにも「何て綺麗!」と思うんだよなあ。昔は(曲単位で好きな物はあっても)そんな風に感じたことは一度もなかった。やらされてるのと自ら望んでやるのとではこれほどまでに差が出るものか。

 

「年を取るとピアノをやっても目標の持ちようがないのがいい」と稲垣さん。確かに実利的な目標はないけど、モチベーションは今の方がはるかに強い。弾きたい曲を自分で選んでいるのも大きな違いだ。昔は先生に指示されるだけだったからね。基礎を習得するには必要だったのかもしれないけど、本当につまんなかったよ。

 

いろんなピアノ曲の中から「これなら弾けそうかな?」って曲の楽譜をネットで調べ、♯や♭の多さに「あ、ダメだ。。。」となるのも”あるある”なのかも。私も昔使っていた楽譜(本)の中から初挑戦の曲を何か弾いてみようと思っても、♯、♭が四つ以上あるとやる気なくなるし。

 

「老眼だから楽譜を拡大コピーする」っていうのにも「そうそう!」と。楽譜をダウンロードしてコンビニでプリントするとき、初めのうちは無意識にA4だったのが、途中からB4に。断然見やすい。ただ、コンビニ印刷のインクってライトが当たると光って見えにくいのが難点なんだよなあ。

 

稲垣さんは「(よく言われるように)ピアノを弾くことで脳が活性化され、弾いている最中に原稿のアイディアが浮かぶことがある」そうだ。でも「ピアノに時間を取られて書く時間がなく、脳が活性化しても何の意味もない」というのが可笑しかった。脳の活性化に関して私は実感がないが、劣化を食い止められれば上々だ。でも今では指も(スピードは別として)ほぼ思い通りに動くようになったし初見もずっと早くできるようになり、6カ月前とは雲泥の差。この40年間使っていなかった脳の神経回路が復活し始めているのは確かだろう。

 

私は3時間も弾いたりはしないけど、細切れに弾いた時間を合計すると2時間くらいになる日がある。夜中にベッドから起き出して弱音ペダルを使って弾きだしたり(私の部屋の下は父の寝室なので)。ただ稲垣さんと違って、今後もずっとこのテンションが続くとは思っていない。というのも、弾きたいと思う曲が限られているからだ。この半年でダウンロードするなどして初めて手に入れた楽譜は10曲もない。全部、元々耳で知っている、つまり好きな曲だ。この他に今後どうしても弾けるようになりたいと思う曲は数曲しかない。それらがひと通り弾けるようになり、次に挑戦したいと思える曲が見つけられなかったら、ピアノ熱はかなり冷めるだろうという気はする。同じ曲ばかり弾いていると飽きてしまうのだ。こういうところは子供の頃と変わらない。

 

昔はあれほど嫌だったピアノに熱中するようになったのは、当然ピアノに向き合う心の持ち方の違いのせいなのだけど、私の場合、ひとつだけ物理的な理由がある。それはピアノの音の響きの違いだ。今の方が断然響きが良いおかげで、音自体を楽しむことができるようになった。習っていた頃は、和室の一部を板張りにした部屋にピアノを置いていた。家を建てたのとピアノを買ったのがほぼ同時期なので、たぶんピアノを置く予定でそういう作りにしたのだと思う。当時は音の響きが悪いというか、籠っていて好きになれなかった。ピアノの下の床は一応フローリング(?)だけど、他は畳だし、砂壁も音を吸収していたのだろう。「なんでウチのピアノはこんなもっさりした音なんだよ。。。」と不満に思っていた。良く言えば柔らかい音なんだけど、私はもっと乾いた硬い音が好きなのだ。

 

今の家はピアノを置いている部屋の床と壁の素材が前とは違うせいで、カラッとした音がする。とても同じピアノとは思えないほど。古くなったことでハンマーのフェルトが堅くなっているのも少しは関係あるかもしれない。そして今回ピアノを再開してから、二か所ある窓の厚手のカーテンを開けてるか閉めてるかでも音が違うことに気がついた。開けている方がよく響くし、更にピアノの天板を開けて弾くのも華やかになってお気に入り。アップライトピアノで天板を開けるなんて、以前は考えたこともなかった。響きが良くなるとなぜか鍵盤のタッチも軽く感じて快適。冬になってからは一層乾いた好みの音になってきた。やっぱり楽器を楽しむのに音の良し悪しは重要なんだな~。

 

ピアノの話、しばらく続くかも。

アガサ・クリスティーの「終わりなき夜に生まれつく」の最後と「ボヘミアン・ラプソディー」の歌詞が似ている件

映画「ボヘミアン・ラプソディー」のチケットをネット予約し、見に行く予定の日の未明、ベッドの中でアガサ・クリスティーの「終わりなき夜に生まれつく」の原書(原題は"Endless Night")を読み終えた。最後の最後で「ボヘミアン・ラプソディー」(映画ではなく曲の方)とシンクロしていて驚いた。ちょっとネタバレあり。

 

"Endless Night" は若い男性のモノローグ。逆玉に乗り世界有数の富豪となったマイケルは、理想の家に愛する人と住むという夢を実現する。しかしその家を建てた土地にはジプシーの呪いがかけられていた。。。物語の最後、殺人を犯した直後のマイケルの言葉は

"It seems odd, doesn't it, that Greta doesn't matter at all?  And even my beautiful house doesn't matter." (奇妙じゃないか?グレタなんて、もうどうでもいいとはね。 そして僕の美しい家さえどうでもいいんだ。)これ、最後から数行の所です。

そして有名なフレーズであるらしい "In my end is my beginning" というのが引用される。直訳すれば「終わりの中に始まりがある」で、調べてみると人生の循環を意味するとかなんとか。よくわからないけど。

 

殺人を犯した人が " does't matter "と語る(正確には小説の中でも紙に書いている)。ボヘミアン・ラプソディーの歌詞と同じじゃないか!と、その日映画を見に行く予定だったこともあって偶然の一致にびっくりしたというわけ。歌詞では "Nothing really matters" だけど、同じようなもの。しかも、方やボヘミアン、方やジプシー(ボヘミアンにはジプシーの意味もある)。そしてボヘミアン・ラプソディーの方は最後が "Anyway the wind blows" 。「それでも風は吹く」というのは「ちっぽけな個人の人生に何が起きようと、世界は周り続ける」という意味に受け取れる。フレディーが作ったフレーズではなさそう。人生を俯瞰したイメージのフレーズで締めるというのも、なんか似てない?

 

悪い意味で人生が激変したり、何か悲劇的な出来事に見舞われたとき、自分の世界が崩壊しようと他の人達にとっての世界は変わらないのだと感じるのは珍しくもないし、犯罪を犯して人生終わったと思っている人なら「すべてどうでもいい」という心境になるのは理解できる。でも、それにしてもエンディングが似すぎてると思うんだよなあ。ただ、この日に「ボヘミアン・ラプソディー」を見に行く予定でなければ気が付かなかったかも。

 

"Endess Night" の内容に関しては、心理描写は楽しめたものの、ミステリーとしてはイマイチかなと思った。読者を騙す、いわゆる”信頼できない語り手”というやつは好きになれない。「あれもこれも嘘でした」では読んだ意味がなくて虚しい。映画やドラマなら効果的だと思って調べたら、1972年に映画化されていた。グレタ役はブリット・エクランド。女優としては全然知らないけど、昔ミュージック・ライフかなんかのグラビアでロッド・スチュアートと一緒に写ってるのを見た記憶がある。

 

英文の難易度としては、ストーリーに複雑なトリックがあるわけでもないので読みやすい方だと思う。私はたまに知らない単語があったけど、意味が推測できたり、推測できなくても話の理解に支障があるとは思えなかったから辞書は使わなかった。田舎の人やジプシーの話し言葉は文法も標準とは違っている。でも意味はわかる。あとは、やたらと仮定法が多いという印象。"I could never have hated Ellie.(添い遂げたとしても)エリーを憎むことはできなかっただろう。" みたいに、主節だけの仮定法がすごく多い。日本語にするとくどくなるこういう表現、英語だとあっさり言えて便利だと、今さらながら。

 

Endless Night

Endless Night

 

 

終りなき夜に生れつく(クリスティー文庫)

終りなき夜に生れつく(クリスティー文庫)

 

 

20日初雪、21日初積雪、そしてこのまま根雪!?

札幌の初雪はおととい(20日)。1876年の統計開始以来最も遅い初雪だったという。この日は積もらなかったが、翌21日には初積雪。そして今日の夕方から本格的に降り始めている。

 

今日の午前中の中央図書館。雪はうっすらと残っていただけ。

 

19時頃の自宅の木々。すっかり雪景色。

天気予報では明日も明後日も雪。もしかしてこのまま根雪?急だわ~。

数十年振りにピアノを弾き始めると。。。

自分でも驚いたことに、飽きずにピアノの練習を続けている。40年振りくらいでピアノを再開するとどんな感じかというと、まあ、ほとんどリハビリと言ってもいい。脳の障害とかで手が動かなくなった人が訓練するのとちょっと似ているかもと思う。いや、指の動き以前に楽譜が読めなくなっていたけどね(笑)。

 

ほんと、まず楽譜を読むところから四苦八苦。五線譜の文字通り5本の線の範囲内ならぱっと見でわかるんだけど、そこから線が2本も3本も上や下へ行った音符はド、シ、ラ、ソ・・・と数えていき、カタカナでファとか書いておく始末。5か月近く経った今では、まあまあ読めるようになった。思い出したのではなく、弾いてるうちに新たに覚えた感じ。

 

指の動きに関しては、ちょっとした速い動きもできなくなってるだろうと覚悟はしていた。でも実際やってみると、単純にそういうことではなかった。速い遅いではなく、頭が出した指令と違う動きを指がするんだよね、勝手に。自分の指じゃないみたい。

 

そしてこれも予想はしていたことだけど、鍵盤の位置(幅)の感覚を忘れていた。本当に初めのうちはラのシャープを押さえたいのにソのシャープを押さえていたり。なんか響きが変だなと鍵盤を見て気付く。最近はさすがにそういうことはなくなったけど。でも遠く離れた鍵盤に飛ぶとき(左手に多い)は鍵盤を見ないと移動できない。昔は見なくてもできてたような気がするんだけどなあ。いや、やっぱりちらっと見てたのかな?見てたとしても、それが負担になってはいなかったはず。今はこれがかなりネックになっている。鍵盤の位置をちらっと確認するために楽譜から目を離すと、楽譜に目を戻したときにどこを弾いていたのかわからなくなることがある。それが連続すると視線があっちこっち行ってクラクラしてくる。

 

まったく予想していなかったことでやっかいなのは、音感がずれてしまっていたこと。この40年で私の頭の中の音はちょうど一音ずれたようなのだ。例えば"ド"が"レ"に聞こえる。ちょっと楽譜を意識しないでいると、"ド~ソ"と弾いているのに頭の中で"レ~ラ"と歌っている。説明しにくいけど混乱することがあるのだ。ピアノを再開してから YouTube でよくピアノ曲を聴くようになり、楽譜や鍵盤が映っているのを見て確認すると、やっぱり私の音感は一音ずれているのがわかる。なんだこれ?昔はこんなことなかったのにな~。でもこれも最近は"ずれ"が修正されつつあるのか、気にならなくなってきた。

 

あと、最初の二カ月くらいは肩凝りで30分くらいしか続けて弾いていられなかった。猫背になっていた姿勢を直したら1時間程度なら疲れないようになった。プロのピアニストでも猫背の人が多いけど、肩凝らないのかと気になっちゃうよ。

 

もちろん他にもいろいろ問題はある。でも続けているうちに少しずつ問題が解消していくのが嬉しくて新鮮なんだよな~。昔はできていたことだから厳密には"上達"ではないんだけど、昨日できなかったことが今日はできるようになった!一週間前とは全然違う!と実感するのは、年をとってからはなかなかないことだ。

 

こうして色々と乗り越えながら練習しているわけですが、ひとつ乗り越えられない壁が。。。それはドライアイ(と老眼?)による目のかすみ。練習し始めの曲は瞬きしないで楽譜を凝視しているから特に。鍵盤の横のスペースに人口涙液の目薬とティシューを常備。

 

昔みたいに弾けるようになりたいとは思っていない(昔だってヘタだったけど)から気楽なもの。認知症予防用のおもちゃを与えられたような感覚で、再開から4カ月経った今も、時間を見つけては喜々としてピアノに向かっている毎日なのだ。

「さっぽろ創成スクエア」を見てきた

ここ数年、札幌駅や大通駅周辺といった街の中心部に出かけることがめっきり減った。二か月くらい行かなかったりすることも。しかも車で行くことが多く、駐車場料金が無料になる2時間以内に用事を済ませようと急ぐので、必要のない所までのんびり見て回ったりはできない。ふと気づくと新しいビルができていたりして様変わりしている印象だ。

 

先日、父が補聴器を試してみるのに付き合って、時計台の近くの補聴器の店へ出かけた。父と別れた後で久し振りに時計台の中に入ってみることにした。修復を終えたばかりということで、11月と12月は通常200円の入場料が無料という新聞の記事を見ていたのだ(そうでなければ入らない)。中に入るのは20数年前に道外の友達を案内して以来だ。

 

実際はもっと薄暗い。正面の記念撮影用のクラーク博士の像は昔はなかったような気がする。

入口と反対側の出口から出る。裏側ってあまり見る機会ないよね。

 

お馴染みの正面から。以前は空をバックに撮れたのが、今では先月できたばかりの「さっぽろ創成スクエア」というビルが背景に映ってしまうようになった。

 

「さっぽろ創成スクエア」には、本格的なオペラやバレエが上演できる設備を備えた劇場としては北海道初の札幌文化芸術劇場(hitaru)も入っていて、地元ではちょっと話題の複合施設だ。いつかここでオペラを見てみたい(料金が高いんだよね~)。

 

もっと身近な部分では、図書館と地下の(当面?)無料の駐輪場がある。さっそく下見に。

767台も収容できるらしい。下段は空きが見当たらなかった。駐輪場はグランドオープンに先駆けて4月にオープン。そのうち自転車で来てみようと思っているうちに股関節が痛くなり断念。股関節唇損傷と診断され、現在リハビリ通院中。来年の春には自転車に乗れるようになってるといいな。

左側の1階と2階が図書館。飲食物の持ち込みができるのがいい。窓に面した机や右下に見える大きいテーブル席が居心地良さそう。

 

個人的に嬉しいのは、利用しているバスの停留所がこのビルの前にあること。バスの待ち時間を図書館で過ごせるのはありがたい。外が寒かったりするとギリギリまで近くのデパートで時間を潰していて、バス停の前の道路を渡ろうと信号待ちをしている間にバスが行っちゃったことが何度かあるのだ。これからは車よりバス(たまには自転車)で来る機会が増えるかもしれない。

ブログ再開

8月の末から二カ月程、ほぼベッドの上で過ごしてきた母が、徐々に居間で過ごす時間が多くなってきた。食事に関しても、ほとんど何も食べられない状態から、最近はある程度普通に食べられるようになった。たまに通院以外の外出もできるようになり、やれやれ、だ。

 

疲労困憊の二カ月だった。母が目眩と吐き気で寝たきりだったときに地震が起き、9月の末には父が数回目の脳梗塞で入院(17日後に退院)。父の入院中に母がベッド脇で転び頭を強打し、救急車を呼ぶ騒ぎもあった。そんな中で、家の周りの地面は地震直後から更に陥没が進み、知り合いの建築士に見てもらったりで、心配事が絶えなかった。

 

近い将来の本格的な介護のことを考えると気が滅入るけど、嫌な事ばかりに意識が向いているのは体に悪い。母はとりあえずは持ち直していることだし、まだ始まっていないことをあれこれ考えるのはやめようと思うようになった。そして何か書くことで無理矢理にでも気持ちを別な方向に持っていきたいと思うくらいの余裕も出て来た。そんなわけで、しばらく休んだブログを再開します(誰も読んでないけどね)。